01:それこそ指先を

 
うちに、人間と呼べるのは実は俺一人しかいない。
ほとんど廃屋寸前の我が家は、親父がまだ景気が良かったころに買ったもので今じゃ近所でも有名な幽霊屋敷だ。
雨漏りはひどいし、隙間風もひどいが何とか生活はできる。無事な部屋がいくつかあるおかげだ。
その親父も、今は人間じゃあなくて違う生き物になっている。いまだによくわからないが、死んでしまったけじゃないから寂しくは無い。会話が出来ないのは、少し残念だけど。
最近ニャアニャア鳴く草(花?)を育てている。育てる、というより飼うほうが感覚的には近い。その草は生きていたから。親父が楽しそうだから、それでいいと俺は思う。
兄貴もいたけど、音石ナントカってやつに命を奪われた。そのときのことはいまだに夢に見るくらい鮮明に覚えている。
だから、兄貴はこの家にいない…はずなのだ。
「億泰、何見てんだ」
「ホントに足がねぇんだなあ〜って」
「当たり前だろ」
バカだな、とか言いながら兄貴はふわりと空中に浮く。半透明で、後ろ側に何があるかうっすら見える。
成仏しそこなった、なんていって戻ってきたのは最近だ。魂だけここに残っているような感じだと俺にわかるように兄貴は言っていた。
「それよりお前、時間は大丈夫か」
几帳面な性格も相変わらずだ。言われて初めて時計を見れば、あと数分で家を出ないと遅刻になってしまう。五回で保護者召還だ。呼ぶべき保護者はいないが、煩わしい。
「やべえ」
「ぼーっとしてるからだ、さっさと飯くって行け」
一応、一通りの準備は終えていた。ただ、兄貴の向こう側が透けて見えるのってやっぱり不思議だって眺めてる間に時間が過ぎてしまっただけで。
「飯食う時間なんかねぇよ!」
「だからお前はバカなんだ」
はあ、と冷たくため息をつかれればしぶしぶ戻らざるを得ない。そういうふうになっている。炊飯器の横でふわふわしている兄貴は俺が飯を食べていかないと何をするかわからない。
とりあえずかっこんじまえば兄貴も文句は言わないはずだ。重ねてあるお椀をとって、適当にもってさっさと口の中に放り込む。
「あんまりあせると、むせるぞ」
聞こえない振りをして、全部とりあえず飲み込む。のどがひろがったような気がした。やりすぎたかもしれない。
時計を見る。今からなら、十分チャリでも間に合うはずだ。何か障害でもない限りは。
「億泰!」
あまりにも強く呼ばれたから、驚いてその場に硬直してしまった。それから、まるでさびたロボットみたいな音がしそうなくらいゆっくり振り向く。
兄貴が手を伸ばしていた。いきなりだったから、反射的に目をつぶってしまった。長年の経験のせいだ。
おそるおそる目を開くと、兄貴は少しうつむいて鏡を指差す。その鏡に、兄貴はうつらない。
「鏡くらい見てから行け」
「…ああ、うん」
覗き込んだ顔は俺だけで、口元には一粒米が残っていた。あせりすぎた。
「気をつけていけよ」
あにき、と呼ぶ前にそこにいた兄貴はすっかり消え去っていた。元から何もなかったみたいに。
とってくれようとしたのかもしれない。でも、兄貴は俺に触れられない。多分。ためしたことがないけど。
ペダルを踏む前から、少し疲れたような気分になった。まだ朝だっていうのに。
考えるのはやめて、さっさと行こうと家を出た。外はいやみなくらい、青い空だった。